2011年4月18日月曜日

帰国後1ヶ月

帰国前の最終エントリーがあまりにも中途半端という意見を多数いただきました。

え~っと・・・・あ・・・・

ごめんなさい。

ちゃんと終わらせようと思ったんだけど、帰国してみると全然気が乗らなくて。

少しだけ言い訳をさせてもらうと、
帰国したのが3月9日、それからたった、”たった”2日しか経たないその日、

東日本大震災。

当日、俺は東京の家にいたんだけど揺れる、揺れる。
こんなに揺れたのは初めてだってくらい揺れた。
内心(こりゃ、東海大震災かな・・・?)とか思ってた。

そんでTVをつけてみると。。。

その後は皆さんと同じ体験をした。

TVに写る光景が信じられなくて、
「あーーー」としか言えなかった。
明らかに動いてる車が津波にのまれていたり、まるでCGのようだった。
CGであることを願ったけど、映画であることを願ったけど、

やっぱりそれは現実だった。
悲しいやら、なんやらで、呆然。

でもその2日後に、鹿児島&沖縄に飛び立つ飛行機を予約していたので、かな~り迷ったけど、鹿児島に向かった。

鹿児島は母方の祖父母の実家。
じいちゃんがず~っと体調悪くて、俺が帰ってくるのを待てないかというくらいだった。

が!

待っててくれた。
意思疎通も出来ないときもあるって言うのに、俺が行った時はしっかり意思疎通ができた。
「どこに行ったのか?」とか「どうやってきたか?」とか

せっかく来たから1時間くらいいろいろ話したかったんだけど、20分くらいでじいちゃんは疲れちゃったみたいで
「帰りな」
と言われた。
そこでしっかり、がっちり握手した。

そして、それがじいちゃんと握手した最後になった。

4月11日、東日本大震災からちょうど1ヶ月。
桜がキレイに舞う日に、じいちゃんは息を引き取った。

本当に俺を待っててくれたみたいで、本当に、本当に会いに行って良かったと今は思ってる。

10歳くらいの時に父方のじいちゃんも亡くしたんだけど、そのときってあまりにも子供でいろいろ理解できなかった。
でも今回は違った。

じいちゃんが亡くなった、次の日には鹿児島に飛んだ。

じいちゃんは布団に寝てて、その前に焼香台がおいてあって。
「え!?」って思った。
こないだ会ったときと全然変わらないじゃんって。
でもじいちゃんは生きてないんだなって頭でわかってた。
それでも、まだ生きてるような感じがして、線香をあげるのをすごく戸惑った。

それから化粧をして、お棺にじいちゃんをみんなで入れた。

その途端、じいちゃんは一気に死者になった。
劇的すぎて、布団に寝てたじいちゃんを思い出せないくらい、一気に。
それからはすごくたくさん線香を上げた。
なんの戸惑いもなく。

そして葬式の出棺の時。
どーしようもない悲しみが俺を襲った。

じいちゃんがいないって11日の時点でわかってたのに、
じいちゃんがお棺に入れられて、いつか火葬されるってわかってたのに、
じいちゃんのその体にはもうじいちゃんがいないってことはわかってたのに、

全部理解して、ストンと心に収まった途端に、涙がドンドン溢れてきた。

頭で考えてることとか全部ぶっ飛んで、心からなんかが湧いてきて、
どうしようもなかった。

そして

じいちゃんは天に昇った。

火葬の前、じいちゃんの棺を開けたとき、じいちゃんの大好きな焼酎の臭いがプンプンしたのは今でも覚えている。

残されたこっちの身勝手な解釈だけど、
俺が旅を終えて、じいちゃんの死に立ち会えたのは、じいちゃんがそうしてくれたからだと思う。

帰国して1ヶ月。
いろんな人と話し、さらに勉強もした。

だから自分が成長したこともよ~っくわかったし、
根の部分から違う考えもするようになったって思う部分もある。

そうやって、いろいろわかってきたときに、死っていう人間、いや生きる者すべてが遭遇することに、じいちゃんは俺を立ち会わせてくれた。
それが俺の”死”ってことに対して成長させてくれたことは間違いない。


旅ってので俺はよく成長したと思う。
それに、いろんな人に感謝しなきゃいけないと思う。
そして、いろんな人の旅、さらには人生の登場人物になれたことを嬉しく思う。

10ヶ月いろんな国を回り、たくさんの人に会い、議論し、ケンカし、大騒ぎし。
そのすべてが自分の財産になった。

嫌な思い出は忍耐力に。
素晴らしい景色は想像力に。
言葉の伝わらない人との会話はコミュニケーション能力に。
理不尽なことへの反論は主張する力に。

こうやって、書いてわかることじゃないけど、
俺の中ではしっかり、わかってる。

いや、わかってない部分もあるかもしれない。

だからこの旅の終わりはその部分を探すことによってドンドン先に伸びるんだ。

旅は終わらない。

0 件のコメント: